


この当時のポルトガル王であるマヌエル1世(幸運王と称される)はポルトガルの探検隊や商業の発展を積極的に支援し、マヌエル1世の命令で出港したヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰を経てインドに至るルートを発見しました。
さらにポルトガルに対抗するエジプト、オスマン帝国、ヴェネツィアは同盟を組んだが、ポルトガル艦隊はディウの海戦でエジプト艦隊を破りました。次いでゴア、マラッカを占領していきインド洋とペルシア湾での海上ルートを独占しました。
この結果アジアとポルトガルを直接結びつける海上交易路が完成しました。
そして東洋の香辛料などの貿易が活発になったため前述の取引所が出来たと云われています。
このアントワープ取引所では商品それ自体よりもその受領書や為替手形、預金証書、公債等が取引されていたようです。

天下の豪商と呼ばれた淀屋、その初代淀屋常安(よどやじょうあん) が先物取引のシステムを作ったと云われています。
常安は大坂冬の陣で、家康に陣屋の設営を申し出を条件に、野営する徳川の兵の酒や食事の配給を一手に引き受けて何万からの兵を相手に大儲けをしたと云われています。
徳川幕府は米経済を基盤としていましたから米を蔵屋敷に蓄え、必要に応じて換金していました。
しかし米問屋の間では個々に取引がされていた為に価格等がバラバラでした。常安は幕府に米市場の設置を願い出て米の取引所を開設しました。
その水運の便利さと蔵屋敷に近いこともあり、米市場に米を持ち込むようになりました。
しかし、その後淀屋は滅んでしまいます。
そして時は流れて江戸の中頃。
8代将軍徳川吉宗の時代は金を掘り尽くしたために産出が止まってしまいました。この結果江戸の商人たちは米を大量には買えなくなりました。買い手がつかない為に米の価格は下落します。
前述したように幕府は米経済を基盤にしていまて、財産は米です。ですから米の値段が下がれば大名や幕府の収入が下がってしまうのです。
吉宗は最初、幕府による規制を考えました。大岡裁きで有名な大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)に命じて米の値段が下がらないように江戸の商人に有利な米市場を作りましたが規制が厳しく大阪商人の支持を得られずに一年程で市場は潰れてしまいます。
そこで、米市場を幕府直営にして他での取引を規制し、米の取引を幕府の管理下におく代わり、大坂商人の要望であった投機的な手形商売を先物取引として認めました。1730年の事です。こうして出来たのが現在大阪市北区にあたる、堂島の米市場です。

現在、世界最大の商品先物取引所はアメリカのシカゴにあるシカゴ・ボード・オブ・トレード(CBOT)ですが、シカゴの市場は堂島の米市場のシステムを倣って作られたといいます。
ここを訪れる日本人の見学者は、案内者に「大阪の米市場が我々の大先輩だ」とレクチャーされるそうです。
現在の商品先物取引のシステムを基準に考えると堂島こそ国際的に認められた世界最初の先物取引システムと言っても過言ではありません。
日本の取引所は東京工業品取引所、東京穀物商品取引所、中部商品取引所、大阪商品取引所、関西商品取引所等の取引所があります。取引所もM&Aがすすみ、ここ近年数が減ってきています。しかし取引自体は集約されて分やりやすくなっていると思います。
